From:健太郎

 

最近思うのですが、釣りって一種の自然科学や哲学みたいに感じるのです。

 

例えば天動説・地動説。

昔、人は地球が宇宙の中心だという仮説の元に謎を解き明かそうとした。

 

けどその仮説では説明しきれないズレが発覚し、その仮説自体に疑う余地が発生し、様々な観測の結果、現在は地動説が普及した。

 

これは「帰納法」と呼ばれる方法らしく、私がやってきた釣りも、まさにこの構図。

 

今日釣れたのはなぜなのか。

 

最初は見えなくとも蓄積されてくるデータを意識すると強い要素が見えてくる。でも予測と要因が一致していないと、先ほど述べたように理論的でない結果がいくつか出てくる。そしてそれは要因とのズレが少なければ少ないほど不具合が少なく、魚が釣れやすく、魚が釣れる分だけ仮説が合っている可能性が高いと言える。

 

けど、やっかいなのは仮説が違うのに結果的に釣れてしまう状況。

 

それに一旦自身の中に仮説が立つと、そこから抜けられないのが人間で、その仮説に矛盾するデータがあったとしてもそのデータは直視できるものではなく、自分の仮説に都合のいいデータだけを重視してしまう癖がある。

 

例えば「この場所は沈根の左で釣れる」という結果から1つの仮説が頭の中にできる。

 

「この場所が魚の住んでいる場所なのかもしれない」と。

 

でもその場所が実は魚が狩りをする場所だけだったり、偶然その時に魚が寄っていただけの場合はいろんな矛盾が発生するわけです。

 

そうなると気づく。

 

「なにか、おかしいぞ」と。

 

実は他人の仮説を疑うことは非常に簡単なのだけど自身が考えた仮説は非常に疑いにくいのが人間で、他人からすると「そりゃおかしいだろ」と思うような幼稚な仮説でも疑えないんです。

 

で、「なにか、おかしいぞ」と自身が考えた仮説を疑えるようになってくると一歩答えに近づいたようなもので。仮説に合わないエラー的に思っていた結果を、ちゃんとしたデータとして直視できるようになってくる。

そしてそれによってようやく偏見から解き放たれ、精度が増した新たな仮説が成り立ちやすい。

 

結局、こういうことを繰り返していると段々と思考が柔軟になってくるんです。状況をありのまま受け入れやすくなってくるというか。仮説は立てるけど疑う余地を残しておくというか。

まあ、それなりに上達するまでの間に何度も何度も「なにか、おかしいぞ」ってなるわけで、さすがの私も謙虚になるわけです(自爆)

 

とまあ、いい落ちもついたところで今回はこの辺で^^