Written by leon

 

 

瀬戸内の釣り仙人38年前のある日、かなり悩んだ挙句思い切って敢行する事にした。

 

釣り情報誌の出版をだ。

 

それが私と師をつなぐ架け橋となった。

 

関係諸氏に相談を重ね、どうにかこうにか予算も立ち、釣りブームの到来もあってか、企画段階にも拘らず各メーカーからの広告出稿も相次いだ。

 

残るは一番重要な部分だが執筆陣の選出だった。

 

まだ若い私にそれだけの人脈があるわけも無かったが、方々ツテをたどって中国地方で「名人」と謳われる方々数人を紹介してもらった。

 

 

出会い、焦がれる

 

その中に私の生涯の師となる「木原名人」が居られた。

 

取材のために岡山から下関まで訪ね歩いたそれぞれの名人は、紛れも無く名人であったし、その傾注ぶりや研究の深さには蒙を啓らかされたが、木原名人はそのいずれの方たちとも違う、オーラとも呼ぶべき雰囲気を醸し出されていた。

 

何が違うのかその時には判然としなかったのだが、たび重ねる取材で実釣にも同行し、師の釣りに触れるたびにソレはだんだんと姿を見せ始め、私の心の中で形骸化して行った。

 

そのオーラの正体を文章で現すのはとても困難なのだが、師の持つムードに魂の奥まで一気に犯された私は即座に弟子入りの申し出をした。

 

「まあ、そう大仰にしなくても、僕達と一緒に楽しみましょう」

 

「僕達のクラブは員数限定なのだけど、丁度一人欠員が出来てるのでおはいんなさい」

 

そう言って下さった師の当時の年齢が、丁度今の私の年齢くらいだった。

 

 

当時クラブ内では私が最も若かった。

 

 

それもそのはずこのクラブの前身は、なんと大正初期に源を持つ「瀬戸内研釣会」であり、創設者である師の叔父にあたる方は宮家に繋がる神社の宮司で、自然学や環境学の研究者でもあり、宮様に鯛釣りの師範などをされた方だった。

 

そこから派生して師が新しく立ち上げたクラブであり、占める会員のほとんどが「戦中派」なのだから、私の存在は全く「子か孫か」と言うレベルだった。

 

 

 

実際実の息子ほど可愛がって頂いた。

 

年齢差が大きかったせいもあろうが、師は釣りの技術より、「釣りの道」を私に語ることのほうが多かった。

 

釣りをすることの意味を、釣りによって何を得るかをいつも語ってくれた。決して直接的な表現ではなかったし、世話話の中に隠されていて、じわじわと心の奥深くへ浸透していくような、いつの間にか「何か」を気づかされるような、あるいは「自ら気づくように配慮されている」事を後年になって理解できるほどの物であったように思われる。

 

実際、未だに釣りをしていて突然師の言葉や行動が蘇り、いま自分が何を求めてどっちへ進もうとしているのかを考え直させられたりして愕然とする事がある。

 

今もまた、自身の内面で色んな葛藤が生じ、進むべき方向であがき、心の中に存在する師に向かって教えを請う自分がいる・・・。

 

17才で父を亡くした私にとって、師はまさに心の父だった。

 

最初に感じたオーラの正体はソレだったのかもしれない。

 

 

 

Written by leon